幼児教室PAL パル・クリエイション

   
パル便り

パル便り「2008年3月号(チャイルド)」

まだ寒い日が続いていますが、ほんの少し春の気配を感じさせる今日このごろです。今日は霊長類学者、河合雅雄氏の「河合雅雄著作集9 子どもと自然」の中の文章を紹介したいと思います。サラリと流さず、じっくり読んでいただければ幸いです。

 人間は幸福を求める動物である。猫や犬も快適な環境を求めはするが、積極的に幸福を追求する行動をとることはない。長大な生物の進化史のなかで営々としてつくられた生態系の、いわば予定調和のような均衡系のなかで、すべての生物はあるがままの姿で暮らしているのである。もちろん、そこには見えない競争があり、ときには血みどろの闘争もある。食うものと食われるものとの激しい争いの関係が、生物の世界の根底にはある。しかし一方、すみ分けという平和共存の方策も、その中から生み出され、生物世界を構築する原理して機能している。

 人間はいつごろから、積極的に幸福を追求しようとし始めたのか。それは長い人類史のなかで、おそらくごく最近のことではないだろうか。人類がいつこの地球上に誕生したかは定かではない。化石人類学や分子進化学などの最近の知見によれば、たぶん五百万年〜六百万年前に高等猿類から分かれ、ヒトとしての道を歩みはじめものと考えられる。初期人類の生活様式は狩猟採集であっったが、約一万二千年前に農耕と牧畜という新しい生業が始まった。人類の歴史を仮に五百万年とするならば、人類はそのうち約四百九十九万年は狩猟採集生活を送ってきたのであって、農業と牧畜の生活はごく最近始まったことに過ぎない。

 農業と牧畜の発明は、人類史のなかでも際立った大きな革命的事件であった。このことによって、人類は自然を自らの手で改変することを覚え、人為による生産手段を獲得し、やがては自然を征服し管理する方向へ向かったのである。そして、文明の発達のよって、幸福を手に入れることができると信ずるようになった。

 科学的思考および自然科学という学問を手に入れることにより人類は物質文明を発展させていったが、いつしか幸福は物質的に豊かになることによって獲得できる、という錯覚に陥ってしまった。わが国においても、第二次大戦後の惨澹たる疲弊を克服し、高度経済成長の後の科学技術の進展による物質文明の発達は目を見張らされるばかりである。戦後の苦境の中で誰がこの豊かな状況を予想しえたであろうか。

 我々を取り巻く環境は、あっという間に人工化し、急速に自然が破壊さてしまった。昭和三十年頃までは、東京都の二十三区でもトンボやカエル、バッタなどの野生の小動物が結構たくさんすんでいた。ところが、三十年から四十年までの間に、それらはすっかり姿を消し、農村でも農薬の大量使用によって急速に動物達は消滅してしまった。戦後生まれの人たちも、しばらくの間はセミやトンボ捕りに興じ、川遊びや木登りに夢中になって、自然と戯れた記憶を持っている。しかしそうした幼少時代を支えていた環境がいっきょに崩壊し、子どもたちは自然とのつきあいを断ち切られてしまうことになった。一昔前は、道路には子どもたちが群れていた。今は自動車が道路を占領し、子どもたちはすっかりそこから駆逐されて、家の中に閉じ込められてしまった。多くの子どもは小さな家で飼育され、学校では厳しい管理の下に画一的な教育で締め付けられている。そして、テレビやオーディオセット、ファミコンなどの電子器具に埋もれ、無機的な世界の中で密室文化に耽っている。まるでクモの巣にかかった蝶が、もがきながら体液を吸い取られていくように、子どもたちは過剰な情報の網目の中で、もがきながら衰弱させていく。

 進歩は無欠の善なるものであり、進歩こそ人間を幸福にする呪文であると信じられてきた。その呪文にしたがって、文明の進歩はすさまじいほどに加速度をまして、まっしぐらに走り出しはじめている。その進歩の加速度を測定する方法もないし、文明の利器が人類を乗せてどこへ向かってはしっているのか、誰も予測できない。

 この状況は、文明を載せている乗り物を思い浮かべれば、ある程度理解できるだろう。人類は肉体の能力を超えた速度を我がものにし、私有に操作できることに憧れてきた。乗馬はある程度それを満たしてくれたが、やはり生物的限界がある。機械だったらその限界を突破しうるだろう。自転車が発明されたが、それはまだ人力によって動く機械だった。自動車、プロペラ飛行機が発明されるに及んで、乗り物はしだいに人間の操作の緑を超えた自動性を持つようになった。しかし、その自動性の中で、人は多くの場合、どうすれば何が起こるか余地できるし、何が危険であるのかを知っている。自分の知覚や感覚の能力で操作が可能だからである。

 我々は現在、音速に近い旅客機で旅をしている。機内は完全に空調され、ゆきとどいたサービスを受け、豪華な飲食を楽しんでいる。飛行機は動いているのか静止しているのか、機内では感覚的にはまったくわからない。何か危険なことが起こっていようと、乗客にはなんら察知することができない。しかし、ごくわずかのミスがあれば、乗員の意志とは無関係に、全員がいっきょに死亡する事態が発生することは確実だ。

 我々が乗っている文明という高度に技術化された乗り物も、ジャンボ機と同じような運命を担って走り続けていると思われてならない。このまま加速度が増せば、いつかカタストロフが待ち構えているだろう。その兆しはあちこちにもう見え始めている。

いかがだったでしょうか。一万二千年前の頃がつい最近のことにように云われてしまっては今の私たちの生活に引き寄せて考えることができない、と「感じてしまいますか?しかし私たちは人類の歴史に組み込まれたれっきとした人類のしっぽなのです。しっぽたちがどこへ行くのか。。。しっぽとしては真剣に考えなくてはなりません。つい先日新聞で、 IT 機器の普及によって消費電力が大幅に増え、エコが叫ばれている中問題となりそうだと言う記事を読みました。便利を追求すると片方で必ず危機が忍び寄ってくるのです。子どもたちをどんな考えを持った人間に育てますか?それはもちろん私達のためではなく子どもたちのために。