●2007.2.27.
Vol.52 今日のひとりごとはちょっと長い・・
鑑賞会を終えて
二月十三日の年長火曜日造形の時間に「鑑賞会」を行ないました。当日お配りした「今日のカリキュラム」に鑑賞会をする理由については書きました。ここでお話しするのはその日の授業の中身です。平常は造形の授業の後には作品が、もしくは活動の痕跡が残っていてお母さんたちに確認してもらうことが出来ます。しかし「鑑賞会」と云う授業は唯一痕跡すら残りません。ですから、私が当日のレポートを書きます。
分ける
まず始めに絵画をジャンル別に分ける作業を子どもたちにやってもらいました。「人物画」「静物画」「風景画」「抽象画」「「お話の絵」の五つのカードを壁に貼りました。まず言葉の説明から。一つ一つ子どもに聞いていきます。「人物画」はすぐに判ります。「静物画」って
? 「物が描いてある」「りんごとか花とか・・」子どもはポツリポツリと探るように言葉にしていきます。「そうだね。果物や花や器や動かないものが描かれている絵だね。」
「風景画」は ? 「外 ! 」「自然が描かれてる」「家とか木とか・・」「奇麗な景色や眺めを絵にしてあるんだね」「抽象画」って
? これはちょっと難しい。いかにして抽象画が生まれたかは,近,現代の美術史の流れを説明しないとならないので,ここでは「実際の物の形でない物で表してある絵です」と云うことで収めました。「お話の絵」は
? これはどういう意図で描かれたかまで説明できる子どもはいなくても,どんな絵かと云うことは分かりやすい様です。実際には,宗教画や神話を題材にしたもの,歴史の記録画等を指すのですが。
バラバラに床に並んだ絵を一枚ずつ子どもに渡し,それぞれの分野の位置に貼付けてもらいます。子どもたちはお互いワイワイと意見を交わしながらそれぞれのカードの下に貼っていきます。出そろったところで,違った所に分類されている絵が無いかどうか,みんなでチェックしました。
昔の絵と近,現代の絵の違い
ここからは、壁に貼った絵を見ながらちょっとレクチャーです。
「「人物画」の中にも本物らしく描いてある絵とそうでないのがあるね.
どうしてだろう。どっちが古くてどっちが新しいと思う ? 」
こうした問いに対して,子どもたちはとても真剣に考えてくれます。知識は無い訳ですから,感性に頼って答えを見つけようとするのですが,そうした力はなまじ余計な知識を持った大人より長けているかも知れません。
「変な顔の方が新しいかも・・」
そこで又難しい質問。
「昔の人の方が絵が上手だったのかなー。昔の王様やお金持ちは自分の
顔を画家に描いてもらって飾ったんだけど,今ならわざわざ描いてもらわなくても他に方法があるよね。」
「そうだ ! 写真を撮れば良い。」
「そうだね。写真なら本物そっくりが得意だ。では,写真が発明されて
からは画家は必要なくなっちゃったのかな。こっちの絵を見てご覧。
( ピカソの「ゲルニカ」を示します。 ) これは何が描かれてある絵かな。」
「お化けだ ! 」 「馬がいる」 「人魂・・」 「人が倒れてる」 「恐い」
様々な感想が出てきます。
「これはね,ピカソって云う人が描いた絵でね。戦争の恐ろしさを描いた
絵なの。上を向いて泣いている女の人は死んでしまった子どもを抱いて
いるの。この絵は恐い絵 ? 楽しい絵 ? 悲しい絵
? 」
「悲しい絵・・」
「そうだね。ピカソはこんなにひどい戦争を繰り返してはいけないって
皆に伝えたくてこの絵を描きました。ちょっと落書きっぽくも見えるし
本物らしく描いてないから下手みたいにも見えるかもね。でも実はこの
ピカソって云う人,本物そっくりに描くこともすごーく上手なの。本物
そっくりが出来ないからこんな風に描いている訳じゃないんだよ。 ( 実際
彼が15才の時に描いた「母の肖像」16才の時に描いた「科学と慈愛」
等を見るとよくこの若さでこれほどの技術を習得出来たものだと感心さ
せられますから
) それから、はい,こっちの王様やきれいな女の人が描
かれている絵を見て。この絵は悲しいとか嬉しいとかが描かれています
か。みんな澄ましてポーズしていて,悲しいか嬉しいか判らないよね。
じゃあ,カメラが出て来た後の画家たちは、何を描こうと思ったと思う ? 」
「気持ち・・」
「そうだね。心を表すことも出来るんだって思ったんだと思うよ。色々な
考えを人に伝えたいとも思ったでしょうね。」
● クイズ
日本画はどれだ・・
ここからはクイズのような形式で子どもたちの感性をチェックです。
「日本画って云うのは,昔から日本の中で育って来た絵のことです。」
子どもたちはあれこれ絵を選んで来ては,これはどう ? これは違う ? と聞いて来ます。中には違うのもありますが,雰囲気としては地味めのものを探してきます。「風神雷神図」や「浮世絵」や 広重の版画等を見せていきながら,「日本画はね,他の国の絵とはとても違うように見えるでしょ。でもヨーロッパの有名な画家たちは,日本画にとても憧れて,この絵が描かれた日本という国に行ってみたいとまで思ったんだって。
( そこでモネの描いた「ラ・ジャポネーズ」という絵を見せて ) この絵を見てご覧。日本の着物をきた女の人が扇子を持って踊っているの。後ろの壁にもたくさん団扇が飾ってあるでし ょう。このモネという人も日本画が大好きだったの。年を取ってからは,自分の家の庭を日本の庭の様に作ってそれを絵に描いたりしたの。」
日本人は,文明開化以降,特に戦後,日本の文化を振り返らなくなり,日本美術の文化を継承する力をとても弱めてしまいました。これからの子どもたちにはもっと日本画を正当に評価するチャンスを与えていかなくてはならないと思います。実際日本画の良さは海外の方がよほど早くに評価していて,だから国宝級といわれる作品がドサクサにまぎれて多く海外に持ち出されてしまったのですから。
この絵はなーに ?
ここでは、フォービズムやキュービズム以降の画家たちの一見判りにくい絵を見て,何が描いてあるか当てっこをしました。
パウル・クレー『満月の夜の火事』
単に色面分割されただけの絵かと思われるようなクレーの絵ですが
「丸くて黄色いのは月だ」 「あっ,ここは街の中」 「家が並んでる」
「赤い十字の形の家は病院だ ! 」 あっ,ちょっと違った赤い家は火事なん
ですって。でもお見事。後は合ってます。
ピカソ『泣く女』
「変だよ,鼻が横を向いているのに目が二つ見えてる。」
なるほど、なるほど、みんなはこの間版画で横向きの顔を体験したばかり
だったね。だから横向きの顔には目は一つだって言ってるんだ。
「爪を噛んでるよ」 「違う,ハンカチを噛んでるのよ」 「泣いてるよ」
「どんな気持ちでないているのかしらね」
「悔しくて泣いているんだ ! 」
「そう,きっとそうだね。」
マチス『画家のアトリエ』
「この絵の描かれている場所は何処でしょう ? 」
「部屋の中」 「椅子がある」 「絵がいっぱい飾ってある。」
「じゃあ,誰の部屋だと思う ? これはね,画家の部屋。絵を描く為の部屋
なの。アトリエっていうの。この絵を描いたマチスっていう人のアトリ
エなんだね。」
その他,モネの「印象 日の出」 シャガールの「彼女のまわりで」
等等,子どもたちと自由な意見を述べ合いました。子どもたちは飽きずに
ついてきます。
一人の画家の絵を探そう ( 単一の一人が制作した絵
)
ゴッホの絵を探してもらうことにしました。壁や床にあったのは、「ひまわり」「自画像」「オーヴェールの教会」「糸杉」「オーヴェールの家並み」
「医師ガッシェの肖像」の六点。その中から「ひまわり」を示して,これを描いた人の絵がまだこの中に五枚あるから集めて下さい,と言いました。子どもたちはしばらく絵を見回していましたが,間違うこと無く全てを集めて来てくれました。
「どうして探すことが出来たと思う ? そうだね,描き方が皆良く似ているよね。じゃあ,他の人はどうだろう。この細長い顔の絵を描く人
( モディリアーニ ) も、この人の絵は皆同じような描き方です。でもゴッホとモディリァーニは全然違う。一人一人が自分の特徴を持って絵を描いているんだね。みんなもそれぞれ違って良いんだよ。友達の絵が上手に見えるからそれを真似しようなんて考える必要はないの。それではあなたの絵にはならない。あなたらしさが出ていなかったらそれは本物じゃないんだから。」
実はこれが言いたくてこの作家探しゲームをするのです。絵を描くっていうことは,技術をトレーニングするっていうことじゃない。だから評価も上手,下手では表せない。一人が描きたい気持ちとその表現が大事なんだと,子どもたちに是非判って欲しいのです。そうでなければずっと絵を描くことを好きでいることも出来ません。好きで描いていくうちに否応なく技術も上がっていくでしょう。幼児のうちは,いや児童のうちだって,伸びやかに楽しんで絵を描くべきなんです。個性を否定するような絵の描かせ方をすることは、要は子どもの個性なんか認めていないと言うことです。
次の週、年長の集大成「静物画」を描く,という授業。子どもたちは全く周りを気にせず、対象物にぐっと引き込まれて真剣に描いていました。
表現の方法をいちいち先生に確認を取ろう等と言う子はいませんでした。
授業成功 !
みんなの好きな絵
さて、最後。子どもたちに自分の好きな絵を探させます。そして何故自分がその絵を選んだのか,何処が好きなのかを述べてもらいました。
火曜日のクラスの子どもが選んだ絵は,
ピカソ「ゲルニカ」 モネ「印象 日の出」
ジョン・コンスタンブル「フラットフォードの製粉場」
サー・ジョン・エヴァレット・ミレー「オフェーリア」
ルソー「眠れるジプシ―女」
レオナルド・ダ・ヴィンチ「モナ・リザ」
スーラ「グランジャット島の日曜の午後」
セザンヌ「チューリップの壷」
ボッティチェッリ「ビーナスの誕生」
ルノアール「ブージヴァルの踊り」
一つの作品を重複して選んでいる子が二人ずついます。
長い長い「ひとりごと」お読みいただきお疲れ様でした。
●2007.2.17.
Vol.51
タンジブル ビッツ !?
真夜中に NHK
の番組を見ていました。 ( そんなものを見る暇があったら週1で「ひとりごと」が書けるじゃナイ ! なんですが
) 当代のプロフェッショナルの仕事ぶりを紹介する番組です。そこで紹介される人々の仕事に対する理念を知るのが私としては奮起に繋がるので、この番組は私のエネルギー源です。今回の
( と云っても再放送で実際には二月八日放送だった様です。 ) 主人公は現在,アメリカマサチューセッツ工科大学のテニュアプロフェッサーである、石井裕さん。彼こそがタンジブルの生みの親。タンジブルって
? 直接手でデジタル情報に触って操作できるインターフェースのこと。 うーん、 中身についてはいまいち理解が難しいのですが、彼が三十九才でこの理論を発表したその経緯と、それから十二年間
MIT で最も企業から研究費を取ってこられる教授と云われる仕事ぶりとその信条には敬服,共感 !そしてふと、今の教育に埋没して育つ日本の子どもの中から彼のような人は出てくるのだろうか,いやそもそも今の教育は日本を支えていくだけの力を持ちうるのか、不安になったのです。石井さんは
MIT に移る前は NTT で研究をしていたのだそうです。その頃の研究はグループウェアがテーマ.クリアボードを開発しました。
( 詳しいことを知りたい人はネットで検索して下さい。 ) そして MIT へ。しかしそこで言い渡されたことは,今までの研究は忘れて,新しいテーマを探して取り組むように,と云うことだったそうです。彼は唖然とした様です。日本でなら容易に今までの研究の先が続けられたでしょう。
MIT のトップの弁はこうでした。
「日本人はひとつのアイディアから次々に派生させた研究をするのが得意だ.しかしそれでは,斬新なアイディアは引き出せない。」
こうして彼は,厳しい競争の世界へ飛び込みます。そしてタンジブルに辿り着くのですが,番組中司会の茂木健一郎氏が、日本ではそのような新しいことへの評価は正当になされるのか、と云う質問をしたところ,
「アメリカが手掛けていない研究は、中々評価されません。新しいことは理解されにくく,アメリカが目を向けていると云う事実が,評価の基準になっている部分が大きい。本来日本人の研究にも優秀なものが沢山あるのに,評価の基準が変わらないと日本がリードする様になるのは難しい.」 と,おっしゃっていました。一部の突出した頭脳を理解できない頑な社会が国の発展をも阻止している,そんな風に考えるといったいそれは何処から来ている弊害なのか考えてしまいます。そしてその答えになりそうな発言が番組の中にありました。
「出る杭は打たれる。だから僕は出過ぎる杭は打たれない,をモットーとしてやって来ました。」
だとしたら,出過ぎる事が出来ない人たちはどうやって過ごしているの ?
「日本では『競争』とは往々にして既に敷かれたレールの上での「点数」争いを指す。」 のだそうで,だとすればそのような土壌をより育んで来たものは何 ? と思うと、そのような悪弊は既に幼児のうちから育まれている
! と思わざるを得ない。受験をクリアすることだけに一生懸命になる人たちは,その先の子どもたちの伸びに想いを致しているでしょうか
? 膨大な時間をかけて退屈な訓練を施されることで,子どものやわらかい心は萎えてしまいはしないでしょうか。やわらかい心を失ったまま大人になると,その大人はどんな欠損を持った人格になるのでしょう。クリエイティブな能力を保っていられるでしょうか。
考えていくと何だか迷路に入り込んでしまったような気がして来ました。
石井さんのようなクリエイティブな人に憧れて,しかし足下を見れば全く違った道筋を未来の大人が歩かされている,そんな景色をなす術も無く眺めている私は無力なのでしょうか。どうしたら子どもは健全に賢く生きていけるでしょう。そのサポートはどの様にすればよいのでしょう。私の永遠の課題。
●2007.2.1.
Vol.50
絵本の読み聞かせ
我が家には五十冊程の絵本があります.孫の家にはその倍以上の本があるはずですが.孫が生まれて1年も立たないうちから本は少しずつ増えていきました.孫の家にはパルに置いてある定番の本くらいはと、ことあるごとに買いました.今は幼稚園から月々配付される本と,母親の趣味で与えられる本が増えていっている様です.我が家には,孫と一緒に本屋に行って彼女の欲しがったものと、私がふらっと本屋に行ってこれは面白そうと思って購入した本が並んでいます.二件の家の本の配列はだからかなり毛色が違います。娘が買うのは,「ルフラン・ルフラン」のシリーズやくまの子が出てくる何とか云うシリーズもの等で,彼女はナンセンスっぽいストーリーと特殊なセンスの絵が好きな様です.私が選ぶのは,ちょっとウイットのあるストーリ−のしっかりしたもの.六義園正門の向かいにあるフレ−ベル館には結構そそられる本があってよく行きます.そこで出会って購入した本で,孫がはまったのはローレン・チャイルドの「ぜったいねないからね」と『ぜったいたべないからね』です.遅くまで起きていたい,嫌いなものは食べたくない,という子どもの抵抗を妹とお兄ちゃんとのやり取りと云う設定で上手く折り合いを付けていくと云う内容なのですが、大人にも子どもにもすんなり受け入れ易い話しになっていて楽しい本です.そして孫本人は意外と、というか、それが案外本当のところなのかも知れませんが,とても基本的な個性の突出していないものを選びます.「ようちえん」と云う題名の本は,文章が一つも無く、入園式から卒園式までの幼稚園の1年を行事を軸に絵だけで綴ったものです.幼稚園に通う少し前に見つけて買って,この春年長になると云うのに未だに時折開いています.
「まいちゃんのいちにち」これも何の変哲も無い女の子の夏の1日を描いた本ですが,好きです.どちらも今自分が一番納得して理解できる内容なのでしょう.
ここまでが前置き.随分長い前置きになってしまいました.子どもはこんな風に本に囲まれながら,成長するにつれ同じ一冊の本でも感じ方を変えて,様々に楽しんでいく,というのが今日のテーマです.孫が泊まる夜は,たいがい五,六冊の本を読まされます.力をいれて臨場感たっぷりに読むので,孫は全部読み終わるまでしっかり目を開けていて,いつの間にか寝ていたというのは未だかつて無く,そういった意味では私は寝かせベタです.枕元にある本の中から今日はこれとこれ・・・と、本人が選び出すのを、あれにしなさいとかこれは長すぎる等一切云わずに引き受けて読むのが流儀というか、習慣になっています.ある晩,つい最近の事ですが,孫が本の中の明らかに今までと違うところに反応しているのを感じました.それは登場人物の感情の機微を捉えた部分でした.初めのうち子どもは絵本の中の絵に注目し,自分が知っているものに親しみを感じ,知らないものに好奇心を覚え,「な−に」を連発します.そのうち絵の中に描かれている状況を理解して面白がるようになります.例えば誰かがすべって転んだ様子などに着目して笑ったりします.「おかしいねー」などと読み手に賛同を求めたりします.やがて物語を丸々咀嚼して「この話しはこんな結末」という、ストックを増やしていく時期があります.勿論どれでもと云う訳ではなくその子の好みはありますが.そして、その時期を通過するとどうやら次は
” 物語を深く味わう ” 段階がやってくるようです.ただストーリーを鵜呑みにするのではなく、いちいち場面ごとに自分の感覚と照らし合わせながら,内容を探っている様です.その結果孫の「ウフフッ」となったところが大人の私の「うふふっ」に重なり,思わず「エッ
? 」と思った,と云う訳です.外国で映画を見ていると,こちらの理解も遅くやってくるせいもあるでしょうが,明らかに感性の違いで観客の笑いの意味が分からなかったりする事があります.子どもの笑いは少し違いますが,状況としては似たものがあります.その今まで空振りだった笑いのつぼがやっと感性の一致を見たぞ
! と思える瞬間に巡り会ったと云う訳です.
こんな風に子どもの発達は一冊の本への反応からもよく見て取れます.ただ本を読んでやるのではなく,感覚をじっと澄ませて読み聞かせの時を共有していると,子どもの変化を確実にキャッチする事が出来ます.その事実から,一冊の本の有用性は一時期だけで終わるものでない事も分かりますし,子どもは子どもなりに学ぶべき教材を選んでいるのだなと云う事も理解できて,子どもの要求に素直に応じてあげようと云う気持ちにもなれるのです.こうした大人と子どもの感性の擦り合わせを繰り返す事で,子どもは精神世界の理解を深め,人とのより良いコミユニケーションを築く事が出来るようになるのではないかと思います.
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