●2009.9.8. Vol.83 子育てに惑いが生じる時・・・
年少児のお母さんから問い合せの FAX をいただきました。以前見学にいらっしゃった時は、家からの距離が遠いのでどうしようかと迷われたそうです。しかし、それ以後いくつもの教室を回ってみて、納得がいかなかったご様子。
──半年前にパルさんの体操を二人で見学し,一度は遠いのであきらめました。しかしお子さんの目の輝き、先生方の熱心な指導が忘れられず、体験をしてみたいと思いました。その間色々な教室を見学しましたが、なぜか無表情な子ども達の教室、女性一人で16人の年少児を相手に大変な事になっていたり、お教室によって様々でした。────
お母さん方はシビアに様々な要素に着目して、塾選びに回っていらっしゃるのだな、と感じました。このお子さんの場合、一人っ子さんで、この春から幼稚園に通い始めたとのこと。しかしまだ集団に馴染めず、1年通っている習い事でもまだお母さんから離れられないとのこと。このお母さんは、是非集団の楽しさを子どもさんに知ってもらいたいと、切に願っていらっしゃるご様子です。このお母さんのように、まだお子さんの年齢が低く一つ一つの成長に一喜一憂しておいでの間は、真に子どもの成長に相応しくないものは避けたいと、純粋に考えてくださる方もおいでです。いくら頑張らせようと思っても、いきなり歩いたりおしめを外したり出来ないという、成長の順序を実感し、越えてきたばかりだからでしょう。しかし、ひとりで歩き、スプーンも一人で持ってご飯を食べ、勝手にトイレに行ってくれるようになると、突然成長の順序という鉄則を崩してしまう人が多いようです。しかも上に挙げたような目に見える発達ではない、精神性の発達に関しては,這い這いの子にいきなり立てと云うのと同じような無理な要求に気づかない場合が多々です。
どうしてお母さん達は子どもへの過度の要求をするようになるのでしょう。
幼稚園に入ると、周りの子どもと我が子を比較して見るようになるのでしょうが、近頃では未就園の子ども達のお母さんにもそうしたチャンスが生じるようになってきたようです。子どもだけの世界 ( 子ども達だけで遊べる世界 ) が消滅し、子育てに力が入る人たちが増えてきた結果、「発達」という一点を伸ばしたいという人たちが集まる場所も増えています。私共は子ども同士のコミュニティーの代わりになれば、とリトルクラスを設けていますが、云ってみればパルだってそうした場所になっているという事実も否めないのかも知れません。
一度比べはじめれば、エンドレスに我が子を伸ばしたくなるのは人情なのかも知れません。しかし、その伸ばし方に問題がある。コミュニティーでの様々な体験から、子ども達はそれぞれ一人一人が色々な道筋で生活力をつけていくのですが、お母さんはコミュニケーション力を伸ばすことに着目するよりも、人より先に字が読めるとか、英語の能力を鍛えようとか、記憶力をつけておこうとか、個人的能力の伸長に目を向けていってしまうようです。
勝手に字に興味を持つとか、好きな車の名前を覚えてしまうとか、そうした自主的吸収は止めるべくもありませんが、子ども同士の自然なコミュニケーションの時間を削って子どもに取って受け身の学習をさせることは、どう考えても短絡的としか云えないプログラムだと思います。
しかも先のお母さんの FAX にあつた、「無表情の子ども達」はどのような指導をうけているのでしょう。年齢が低ければ低い程、教室形式のお仕着せ的指導法の中では居心地が悪く、自分を出せずに硬直化します。そこに何故か逆らえないような雰囲気がかもし出されていると、魔法にかかったようにまるで夢遊病者の様に参加してしまう、といった子どもも出てきます。年齢が低く、大人に指示されていることがよく分からないうちにそうした教室に参加して表情を無くした子どもを、今までにたくさん見てきました。
本来子どもが就学年齢に達するまでにすべきことは、豊かな人間関係を育み何にでも好奇心を持ってイキイキと生きる、という土台を作ることが何よりも大切なはずです。二才,三才の低年齢に限らず、6才までを大人の身勝手な思惑で過剰な詰め込み教育に浸ることの危険をもっと考えるべきです。
外山滋比古さんの「思考の整理学」という本に,グライダーと飛行機に例えた人の能力の話があります。
───人間には、グライダー能力と飛行機能力とがある。受動的に知識を得るのが前者、自分で物事を発明、発見するのが後者である。両者はひとりの人間の中に同居している。グライダー能力を全く欠いていては、基本的知識すら習得できない。何も知らないで、独力で飛ぼうとすれば、どんな事故になるか分からない。しかし、現実には、グライダー能力が圧倒的で、飛行機能力はまるで無し、という ” 優秀な ” 人間がたくさんいることも確かで、しかもそういう人も ” 翔べる ” と評価を受けているのである。学校はグライダー人間をつくるには適しているが、飛行機人間を育てる努力はほんの少ししかしていない。学校教育が整備されてきたということは、ますますグライダー人間をふやす結果になった。お互いに似たようなグライダー人間になると、グライダーの欠点を忘れてしまう。知的、知的と言っていれば,翔んでいる様に錯覚する。─────
だからこそ、学校という集団に取り込まれる前から、グライダー人間を造るようなやり方を幼児に仕掛けることは賢明とは言えないでしょう。一度壊した生き方は中々修復できません。小学校に入ったら好きなことをさせてゆっくりと育てよう、と一時は考えても、入った瞬間からまた過度の競争 ( グライダー人間を造る競争 ) に巻き込まれる。一度できてしまった競争のシステムは途切れること無く続いていくのです。そして結果大きな欠落が出来たまま大人になる・・・
区切り区切りで競争に勝つ、というやり方に流されていっていいのでしょうか。大人になった時までを見通して今を考えることをしなくてよいのでしょうか。
惑わせている正体は何なのでしょう。情報過多 ? 環境の悪化 ? 成果主義という怪物 ? ・・・ 一度立ち止まって何に惑わされているのか、真剣に考えてみて下さい。貴女の幸せの感覚は、将来のお子さんの幸せ感と果たしてマッチするでしょうか。よかれと思って子どもに仕向けたことが、実は子どもの精神を圧迫していたとしたら、それは必ずや子どもの将来に影響することだと、受け止めて欲しいと思います。
私立小学校の受験担当の先生に一言。些末な知識の確認をして合格者を決めるようなことをくり返すことは、貴女の学校のレベルを下げるばかりか、日本の教育を損なうことになります。人としてのしっかりとした土台を築きあげて育った子どもを見抜ける目を、もっと養って下さい。私立学校を経営していく権利と共に、幼児の健全な生活を保護する義務もきちんと果たして下さい。
●2009.5.14. Vol.82 造形活動
年長クラスの5月第一回目の造形は,「サルとワニ」と言うお話の場面の再現粘土です。使う粘土の量はゆうに3キロを越えて、大きいのを作る子は5キロ程も使うでしょうか。始めは目の前の粘土の量に戸惑っている子も、徐々にワニのフォルムを追いかけることに熱中してゆき、粘土を足して足して、ついにはとても迫力のある大ワニが出来上がります。この年齢の子どもがこんな量の粘土に出会う機会は、まず無いでしょう。しかしここまでの容積の固まりを作るからこそ,そこに様々な表現の工夫が出来るわけで、1キロそこそこの粘土では表現のしようがありません。
このような活動に至るまでには、何年もかけて少しずつ力や技量が上がっていくように仕組んでいきます。2歳、3歳の子どもには、大きな固まりの粘土を牛耳って何かの形にしていくことは不可能です。3才児に同じ程の量の粘土を渡す時は、砂場遊びのような穴開け、穴掘りの様な活動をさせます。そんな労作だけでも彼等には一仕事で、粘土の固まりに穴が空いた ! というだけで大きな充実感を得る様です。
こと程左様に、子どもの活動は順を追って進んでいくもので、その為にはその発達をよく見きわめ、最適な環境を用意することが肝要です。絵の具の使い方についても、どの年齢からでも筆を使って絵を描くことが出来るかと言うとそうではなくて、絵の具と言う素材そのものの不思議を一杯探索させなければ、その先に進むことには些かの無理があります。パルの子ども達は、リトルからふんだんに絵の具を使って遊び慣れているので、 ( 2才児3才児は体全体で絵の具遊びをしていると言ってよいでしょう ) いざ年長になった時には絵の具の使い道もその技量もちゃんと整っていて活動することが出来ます。しかし、年中の途中から、もしくは年長から絵の具を触る子は、描くよりもまず色混ぜがしたくてたまりません。パレットに適切な色を作るより、全ての絵の具を混ぜたらどうなるだろうという欲求に負けて、パレット中をくすんだ茶色一色にしてしまうまで絵を描くことはお預けになったりします。よしんば見よう見まねで絵を描くことが出来たとしても ( 自己規制を訓練された子ならそうするでしょう ) そこには伸び伸びとした創造性は望めず、堅苦しく縮こまった表現があるだけ、ということになりかねません。
「こんな絵」を描かせたい、という所から出発すると、年齢、月齢、経験を全て無視して描かせる為の訓練をさせざるを得ないのでしょうが、「こんな絵」に自分らしさを込め、伸び伸びとキラキラした表現を爆発させることは訓練では手に入れることが出来ません。子どもの描いた絵は,その絵に子どものバックグラウンドが全て出てしまいます。色合い,構成、ストーリー全てがその子の日常生活を全て写します。本当を言ったら、絵を描くことはそうしたイキイキとした生活の表出なのです。「手本のように絵を描く」というのは、本末転倒だと言えます。逆さまをせず、子どもが楽しんで大きく伸びる様、大人は活動の内容をよく吟味し、環境を整える努力が必要でしょう。
●2009.4.16. Vol.81 試行錯誤の意味は・・・
昨日プレイリトルクラスの2回目の授業がありました。プレイリトルは、主にお母さん方に子どもの特性を学んでもらう為のクラスです。けれどそのことをどのように理解していただくかが中々難しくもあります。お母さん方はついつい目の前の課題を子どもにクリアさせることに一生懸命になってしまって,子どもを観察するという姿勢には中々なれません。まあそれも仕方のないことだとは思います。子どもを教室に通わせるというと、お母さんはどうしても付き添い感覚になってしまうでしょうから。でもこのクラスはお母さんの為のクラスなのです。子どもを通して、なるほど子どもはこんなことにこのように反応していくのだな、と解っていただくのが、主目的なのです。
昨日の造形は,「シール貼り」をしました。直方体の大きな積木に四角いシールと丸いシールを貼ったら,電車が出来た ! 赤い虫型の紙に黒いシールを七つ貼ったらてんとう虫。大きなイチゴ型の紙につぶつぶを貼って、おいしいイチゴ完成 ! 壁に貼った大きな木に、チョウチョやカブトムシやカタツムリやトンボのシールを貼ったり・・・大きなシールから小さなシールへ,子どもはてんでにシールを剥がし,所構わずペタペタと貼っていきます。
授業の始まりにお渡しする「本日のカリキュラム」に、「お母さんが遊びの場面を上手に設定して,楽しく話しかけをすることがポイントです。」と書きましたので、お母さん方も何とか上手に語りかけをしようと頑張ります。始めに私が直方体の積木に四角い窓と丸い車輪を貼ってみせたので、お母さん方はなるほどそのように貼るのね、と子どもをその方向に誘導しようとします。確かにこの年の子どもには,何らかのサジェスチョンを示す必要があります。そうでないと、積木とシールを渡したままではなにをするのか解らないでしょう。本当はどちらも子どもが勝手に探してきてあれこれ触ってみた挙げ句に、こんな風に貼ると電車に見えるぞ、と気が付くのが理想でしょうが、そうするには家で同じ材料をいつも手にして何度も何日も遊んだ挙げ句にやつとそこへ到達するまで待たなくてはなりません。このクラスではそれをじーっと待つことは出来ませんから、こんなこと出来るよ、という誘いかけはします。しかしそこから先は,子どものすることを見守る姿勢が大切です。「ほら,このシールは窓用の四角だから、ここに貼るのよ。全部片面に貼っちゃったら反対側のシールがないわよ。」等と,先へ先へと子どもを誘導したのでは、子どもは自ら考えること無くただ手を動かすことにしかなりません。
子どもは,放っておくとシールを貼ったり剥がしたり、重ねて貼ったり、勝手気ままに活動していきます。「子どもの活動の終着点を勝手に設定して,作るものの完成予想図を大人の感覚で頭に描かないで下さいね。この年の子どもは,まだそこまでの統合力は持ち合わせていませんが、大人の目から見たらデタラメのようでも,充分そのつもりになって遊ぶ想像力は大人より余程豊かです。」と、私はお母さん方に話します。これは、何もプレイリトルに限ったことでなく、幼児全般に言えることです。大人は、どのような造形活動にもついつい雛形を求める傾向があります。その方が理解し易いからでしょう。でも,それでは子どもの成長には繋がりません。大人の「こうして欲しい」に付き従った子は、考える力を失ってしまいます。子どもは,いろいろなことを試しながら少しずつ前進していきます。そしてその試行錯誤が彼等を鍛え,考える力を伸ばしていくのです。
シールを貼りながら,子どもはその度に様々な気付きをしているはずです。プレイリトルの年齢では無理としても、年中くらいの年の子なら、6枚のシールを片面に全部貼ってしまっては反対側の分が無いぞ、と気付くでしょうし、では,片面に何枚貼ればいいだろう,といったことも考えていくでしょう。そうした気付きが、遊びの中にたくさん潜んでいるのです。
ここまで書いてきて,まるで今年のプレイリトルのお母さんに観察力が無いように読めてしまうのに気付いて、慌てています。実は,今年のプレイリトルのお母さんは,子どものしていることを上手に見守ることが出来る方がたくさんいます。念のため !
●2009.3.4. Vol.80 子どもの発達を理解して !
まず,新聞の記事を読んでみてください。朝日新聞・「育児ファイル」というコラム記事で、筆者は日本子ども家庭総合研究所の堤ちはるさんです。厚生労働省の乳幼児栄養調査 (05 年度,複数回答 ) によると,一歳以上の子どもの「食事で困っていること」で最も多いのが「遊び食い」 (45,4 % ) で、「偏食する」 (34,0 % ) 、「むら食い」 (29,2 % ) が続きました。遊び食いの中には,「手づかみ食べ」も含まれると考えられます。「食べ物で遊んでいる」「行儀が悪い」と,手づかみ食べをやめさせたり、大人の手で食べさせたりする人がいます。手づかみ食べが食べ物を噛み砕いたりする機能の発達に、重要な役割を果たしていることが余り知られていないからでしょう。
子どもはまず、目で食べ物の位置,大きさ,形などを認識します。次に、手で掴むことによって,食べ物のかたさや温度などを確かめると同時に,どれくらいの力で握ればいいのか、という感覚の体験を重ねていきます。 食べ物を口まで運ぶ段階では、指しゃぶりやおもちゃをなめるなど、手と口の動きを連携させる経験が生きます。手づかみ食べが上達し、目と手と口の連携がスムーズにできるようになると,スプーンやフォークなどの食具を徐々にうまく使えるようになります。 また、手づかみ食べをすることで,自分で食べたいという意欲が生まれ,自分で食べることの楽しさも覚えます。ただ、手づかみ食べをするような時期は、「○○してはダメ」など、子どもに対して否定的な表現が多くなりがちです。「○○しよう」「△△ができるかな ?」と肯定的な表現で子どもに接すると,食事の雰囲気も楽しくなります。以上が記事の内容です。ここで取り上げられている子どもの年齢は、1才〜2才にかけてについてだと思われますが、お子さんのその頃を振り返ってみて心当たりのある方はいらっしゃいませんか。行儀,しつけ、と考えて始めからキチンとしておかなくては、と思う人が結構いるのではないでしょうか。しかし、それが年齢に於ける発達を見誤った進め方だと、記事は指摘しているわけです。
さて、こういった見誤りは食事の問題に限ったことだけでしょうか。私たちの教室で子どもと関わっている内容についてだけでも、お母さま方の子どもに対する見誤りは多々あります。体操に関して言えば、二才や三才のこどもに「順番が守れない」「列に大人しく並んでいられない」等,体験を嫌と言う程しなければ出来ないようなことを要求したがるお母さんがいます。年中、年長になれば、ルールも理屈も解るようになるのでできるようになることですが、二,三才の子どもは,やりたい意欲を先に養わせて,そこで起こってくるトラブルを味合わさせて初めて、なぜ順番を守った方がいいのかを体得させるべきです。その順序を違えてしまうと,訳も解らず我慢することだけを身に付けてしまい、意欲,元気は削がれてしまうでしょう。トラブルより先に強制が来てしまっては、何も考えずに従うだけの子を作ることになります。
大人はつい,自分達にとって常識だということを、子どもにも無条件に突き付けていることが多いようです。しかし、この常識がくせ者で、大人同士の間での譲り合いに含まれているものは、「こうあれかし」という理想ではなく、こうした方が波風も立たず,人から嫌われずに済むといった功利的な考えが働いてのことが多くありませんか。それを子どもに鵜呑みにさせるのは、明らかに子どもの成長を阻むことになりはしないでしょうか。
子どもに健やかにしかも賢く育ってもらう為には、大人が子どもの発達をよくわきまえなければなりません。
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