●2011.3.18 VOL.91 「チャンス」
まだ原発事故の回復もままならず、果たして危機は避けられるのか(避けてもらわなければ困りますが)、ほうれん草は食べたらいけないのか、雨に濡れないようにと云われてもどこまで防御できるのか、分からないことだらけで頭の中は空回り状態です。でもこれって定かでない情報に振り回されている? とも云える。だめだめ、自分で思考しなくては。
こんな非常時でなくとも、現代は情報社会。氾濫する情報を更に追いかけても、まだ取り損ねた情報があるのではと不安に思って過ごす人もいたはずです。
でも,真実は何なのか。また世の中の平均値でなく,自分に取っての価値って何なのか、この際じっくり思い直してみた方が良いのではないでしょうか。
津波で町中が流され、建物が無くなり遮るものが何もなくなってしまった被災地。世の中も今はある意味、この状態に似ているのかもしれません。災害で日本中が(少なくとも関東以北は) 今なにを心配しているのか、どんな判断を持っているのか、否自分勝手な行動に走ろうとするのか、様々な姿があからさまに見えている状態です。本当に大切なのは何だろう、人との繋がりは必要ないのか、ゆっくり考えるチャンスにするのはどうでしょう。ピンチはチャンスに、日本人はしたたかに、でもしなやかに生きていくはずです
。
私が伝えたいことは、”子どもの発達にも正しい目を向けて欲しい”ということ。
今回の被災した人々の中でも,中高生の子ども達の逞しさが際立っていますが、本来子どもには逞しさが備わっているのだと思います。子ども達は誰に命令された訳でもなく、自主的に様々な役目を買って出ています。子どもが自然に成長していけばちゃんと成長できるはずなのに、無理に先へ進めようとしたり,ねじ曲げたりすると、子どもは萎えていくのです。
3月15日発行の「プレジデントベビー」(プレジデント社)に、私の記事が掲載されています。その記事とともに孫の造形物が時系列的に載せられていて、どんな風に子どもの造形が発達するのか一つの例として見ることができます。良ければ手に取って見て下さい。こんなにゆっくり進んでいくのか、でもこんなに色々なことを発見しながら進むのか、が分かっていただけるかと思います。
●2011.3.18 VOL.90 「地震の後で」
観測史上最大の地震が起こりました。皆様,ご無事でお過ごしですか。
パルはあの日、授業中でした。子ども達は体操の最中で、この日のプログラムは劇遊び体操だったので、皆冒険の真ッただ中にいました。スタッフが機転を効かせ、揺れを感じる教室もごっこ遊びの中の出来事のようにカモフラージュしたので、揺れている事実を子ども達に怖がらせずに済みました。その後、文京区の施設「教育の森」(災害時避難場所に指定、いつもは裏庭のように使っている至近距離の公園です。)に全員で避難しましたが、子ども達はまだ外遊び気分で、結局教室に戻るまで楽しそうにしていました。
今回の地震の様な大きな災害があると、教室運営は難しい選択を迫られます。
子どもの安全を第一に考えなければならないのは当たり前のことですが、先々の予測判断が難しく、大したことはないと感じる人と,一大事だと思う人と人によって様々な感じ方があるので、休みにするかどうか、どこに基準を取るかで迷います。どのような受け取り方をされても、とりあえず子どもと一緒に過ごす自信が持てなくては預かれない訳ですから、「16日までに大きな地震の起こる確率70%」と報道されたことは看過できないとして16日までを休みとさせていただきました。そうは云っても簡単に全員への連絡はつかず、スタッフは毎日出勤して連絡その他に追われていました。
地震後、17日に授業を再会したのですが、子ども達に取っては授業を受けてもらってつくづく良かったと感じました。地震で恐怖を感じ,大人達のストレスフルな雰囲気を感じて一週間も生活してきた子ども達は、やはりかなり精神的に疲れていたようです。私たちもそれを予測していたので、なるべく子ども達のストレスを取り除けるような授業をしようと考えました。いちいち並ばせたり,種目の説明をしたりせず、「体をいっぱい動かして楽しく遊ぼう」を目標に1時間暴れ回りました。子ども達の抜けるように明るい笑い声と、笑顔、髪の毛の先にしたたる汗。1時間後にはすっきりとさわやかな子ども達になっていました。
意識してこんな授業をすると余計に、子ども達には硬直化した緊張を強いる授業は何の役にも立たないものだ,とつくづく感じます。この子達はまだ本当に遊びの中にいてこそ,精一杯の活動が可能なのではないでしょうか。
●2010.1.18 VOL.89 「適切な造形活動についてそろそろ考えてみませんか」
つい最近,当教室を見学された方から「この教室では絵の描き方は指導しないのですね。楽しく描く事が目的なのですね。」というコメントをいただきました。絵画指導とはそんな風に捉えられているのかと、憤りを感じるとともにこんな誤解をいつまでも放っておく訳にはいかないとつくづく感じました。
造形活動は,他の習い事とは異なる側面があります。水泳にしてもバレエにしても型があり、型をマスターしなければ先には進めません。ピアノは音符の示すルールを理解して、それに従って正確に音を出さなければならないし、算盤は正解を出さなくてはなりません。それぞれの好きな回答でいい、等という事は、絶対にあり得ない。これらの習い事に求められるものは、親も容易に理解することが出来ます。
しかし造形活動には ”これが正解” といったものは無く、活動の結果は級とか段とか云った測り方で評価されるものではありません。子どもは言葉で表現しきれない感覚を描く事に求めますが、絵画の表現活動は全体的な発達のあゆみと連動して発達します。言語発達、情緒・精神・認知の発達がゆっくりと進むのに伴って表現が豊かになっていくものなので、その順路を無視した絵画だけの独立した発達はあり得ません。幼児の絵はただただ感情の発露なのですし,そうあるべきなのです。しかし大人はそれを中々理解せず,あの絵は上手な絵、これは乱雑で汚い絵、と云った一般的な大人の基準に照らし合わせた評価をしがちです。そうした否定的な見方で見られることで、子どもは萎縮し,活動が嫌いになっていくのです。
仮に美術に才能を示して欲しいと願ったとしても、技術習得を目指すのは他の習い事と違って、早ければ早いだけいいとはいえません。幼児期はただ造形の世界を楽しいと感じ、絶え間なくその遊びを続けるしかありませんし,それが正に将来の土台となるのです。バルでは子ども達の絵を豊かにする為にこそ、
充実したカリキュラムを用意する事に腐心していますし、手を取って書き方を叩き込む等という子どもの尊厳を踏みにじる様な事はしないように心掛けているのです。
本来幼児の期間の造形活動には,精神的な効用の側面があり、こちらの要素の方がずっと大切です。自分の気持ちの表現を造形に求め、その表現活動を媒体に人との繋がりを求め、受け入れてもらえることで安定した気持ちを手に入れる。そうして更に表現への欲求が高まり,活動に没頭する事で描いたり作ったりするものの中に様々な発見をする。発見をもっと高次のものに繋げたいと思う気持ちが育ち,忍耐努力して自分の目指すものに近づけたいと思う自発性・積極性を育む。そして目指すものが完成したとき,得難い達成感を味わい自尊の気持ち・自己肯定感を持つ。そのことは造形活動に留まらず,他の全ての分野での成長の為の大きな武器になります。そうした精神活動が、幼児の造形活動であると云っても過言ではありません。
どんなに良い造形活動の環境と出会ったとしても、前述のような造形活動の神髄を大人が理解しない限り,子どもにとっての環境はいくら水を注いでもどんどん漏れてしまう、笊の様なものとなってしまうでしょう。
子どもの頃に絵を描く事が苦手になったと感じる大人はたくさんいます。きっと理不尽な評価にさらされ,傷ついた結果,嫌いになってしまったからなのでしょう。初めから絵を描く事を疎ましいと感じる幼児はいないのです。大人の評価にさらされても、その事が感じ取れる年齢になるまでは、幼児は無心に絵を描きます。それはパルでも実証済みです。もし促成栽培的に子どもの絵を上手に見せるようにしなければならない何らかの要因があるとすれば、その要因の方をこそ改善しなければなりません。もしくは本当にそのような事が必要なのか,実態を検証すべきです。でなければ,折角の成長の貴重な手段を捨ててしまう事になるのですから。
●2010.12.24 VOL.88 「今年の受験もよう」
今年もあと一週間。やっとここまで辿り着きました。この時期私達は、年長児の最後の受験の心配と、一週間続くクリスマス会の仕事で追われます。
今年は、学芸大竹早幼稚園の年中受験が最後になりました。結果はまだ判明していません。その前の週に、筑波大小学校の結果が出ました。今年は一次の抽選で12人もの子ども達がくじを引き当てました。例年の倍程の数です。抽選から考査まで、約ひと月あり、受験塾界ではあちこちで短期講習が行われます。
常々この学校のこのような体勢には、異論があります。何故ひと月弱の期間が必要なのか、疑問です。お茶大附属小は、抽選から1日置いてすぐ考査が行われます。筑波では沢山の書類手続きがくり返し行われますが、その間子ども達の中には慣れない講習を受け、無用な緊張を強いられる子どももいます。まあ、1年も2年もかけて準備をする必要がある、と思われている有名私立小受験に比べれば、たったひと月とも云えますが、国立小が採ろうとする子どもに、お金をかけて準備をしなさいと取られても仕方のない期間を置くのは、公教育らしくない気がします。
そうは云っても、くじを引き当てて来た子ども達を、ただ手をこまねいて見ているわけにもいかず、今までパルもパルのできる援助をしてきました。勿論無料です。筑波の考査の中で結構ハードなのが、一種の制作課題です。何段階もの過程を経て制作物を作り上げる課題で、説明を聞く理解と集中、それを実行する手際の良さ、早さが要求されます。そして毎年なんらかの形で、紙を手でちぎる作業が含まれます。私達の想いは、子ども達が初めて出会うこの難解な作業に圧倒されてしまうのを防ぎたいと云うことです。何も手を付けられず,その体験で萎縮した記憶を持つことは、不幸だと思うからです。少しずつ、難度を上げながら、3回に渡って1回4、5題の課題を渡しています。これらの課題は、私達が過去の試験問題を分析し、要点を押さえ、オリジナルなものを作っています。これを宿題として、翌週に提出してもらうようにしています。渡す時には、お母さんに取りかかる時の方法を説明するほか、無理強いをしないよう様子を見て実施するようにお話しします。私達がこの期間にこのような課題を渡しているのは、子ども達と私達の間に信頼関係が出来ていると云う確信があるからです。こうして今年は何と考査を受けた子ども達の半分が合格しました。そうは云っても、最後のくじを引き当てたのはその又半分です。今年の子ども達に関しては問題ないと思いますが、過去にはこの学校が必ずしも合っているとは云えない子どももいました。最も、学校側も今まで余りに競争心ばかり強い子どもを集めて来た反省として、この2年「行動観察」という課題を追加して来ているので、この先は幾分柔らかな校風に変化していくのでは、という予測があり、少し安心かと感じているのですが。
と云うわけで、幼児に過酷な受験訓練を強いるのは反対、と云う立場を取っているパルですが、こうしたお手伝いはしています。そして沢山の子どもが、筑波小に入学するレベルに達していると証明されたことに関しては、よかったと思っています。もっとも、11月に行われたお茶大付幼稚園の受験の、たった2人しか一次のくじを引き当てなかったにも関わらず、2人とも考査に通ったことの方が、私達にはずっとすっきり喜べる結果でした。たまたま今年は
くじを引き当てた方々が、私のアドバイスを適格に実行して下さるご両親だった事もあり、かの幼稚園ではかつて無い特殊なクラス(来春の年中児)の園児として選ばれたことは、いつもより余計に喜ばしいことだと云えます。
●2010.12.17 VOL.87 「孤育?」
ひと月前の新聞に、「孤育ての国」と題する意見特集が掲載されていました。
「蛇にピアス」で芥川賞を受賞した金原ひとみ氏は、” 周りに子どもがいない環境だったので、自分が出産するまで子どもは3才くらいまでハイハイしているものかと思っていた” そうです。少子化と家庭と地域の関わりが薄くなった環境の中で、女性とて自身が子どもをもうけるまで、小さい子と接する体験をすることは多くの人に取って難しいことになっているようです。だから突然今日から母親ですよ、といわれても、子どもの行動が全て理解出来るわけにはいかないのは仕方のないことです。
さて、ではフレッシュママはどこから育児に手を付けていくのでしょう。育児雑誌を読むところからでしょうか。保健所の指導を支えにするのでしょうか。育児雑誌の内容は誰にでも当てはまるようでいて、個別には対応してくれないデメリットがあります。しかも個々の成長の度合い(例えば歩き始めとか、しゃべり始め等)を ”これが平均です” 等と書かれていると、お母さんはどうしても “うちの子のレベル” が気になり、かえって不安を煽られることになったりします。
私が親子の情景を見て感じることは、大人、子どもそれぞれの理解度の差を意識せずに子どもに接しているお母さんが多いと云うことです。まだおしゃべりもままならない子どもに、今持っているおもちゃを他の子どもに貸して上げなさい等と云っても子どもには理解できません。でもお母さんにしては、社会通念上人には親切にするものだ、と子どもに伝えたいわけです。それが通じるにはあと2年くらいかかるのですが、そうした発達の道順は以外と知られていません。こうしたことは、困った時にたまたま育児書のQ&Aを見て、その中から答えを探すことができたら解決出来るのですが、何が困りの原因なのかを客観的に掴めないと、適正なQ&Aに辿り着けません。
パルのプレイリトルクラスは1才半からのお子さんとお母さんの為のクラスですが、私がこのクラスを作った意図は、子どもが遊びにどのような欲求を持っているのか、それにどう関わってあげれば遊びの効果が上がっていくのかをお母さん達に知っていただくことでした。子どもの行動のひとつひとつに駄目だしをしていては、子どもはフラストレーションを起こしてしまいます。同じ内容を伝えるにも、否定的な言葉を肯定的な言葉に代えるだけで、子どもは素直に受け取ってくれます。これは、子どもの性格形成にも大きく関わっていきます。お母さんが否定的な言葉掛けで育てていくと、将来今以上に子育てに手を焼くことになります。大きくなってからの方が、修正はより大変なのは云うまでもありません。
教室の利点は、親子の関わりの現場でのアドバイスが可能だと云う所です。2才前後の幼児は気ままで当たり前。1時間半の活動予定に全てお手本のようについてくる子はいません。でもお母さんは、やれここを抜かしてはいけませんとか、順番を守りなさい等と子どもに強制しがちです。強制するのではなく、言葉掛けに工夫をしてみるとか、しばらく自由にやらせてみて様子を見るとか、ひと呼吸置いて考えることをしてもらいます。そして実感してもらいます。そうした試みが、おうちでの対応にも活きていくといいと考えます。
子育ては果てしなく大変、と感じるか、子どもは観察してみると興味深い対象だと感じるか、やはり後者の方がずっと得ですし、子どもにとっても幸せです。金原氏は、”1対1はどん詰まりの関係” と書いていました。子と母が一日中にらめっこで過ごしても、煮詰まるばかりでしょう。子育ては昔から母子2人だけの中で育まれて来たわけではないのです。2世帯3世帯同居の中に経験者がいたり、近所に経験者がいて世話を焼いてくれたりの中で母子共に育っていったのです。少し肩の力を抜いて、子育てを楽しむ方向に進んでみましょう。
●2010.11.11 VOL.86 「リトルクラスの外遊び」
リトルクラスを連れて,小石川植物園に外遊びに行きました。
とても気持ちのよい秋晴れの中、12人の子ども達とゆっくりゆっくり
自然を味わいながら,園内を回りました。少し風の強い日だったので、
時折木々の間を吹き抜ける風が枝をゆすり,黄金に輝く木の葉が舞い散るのを、
子ども達は呆然と見つめていました。感嘆なのか恐れなのか,黙って見つめる
子ども達に,“葉っぱの雨だねー」と声を描けると、彼らはやっと固まった気持ちを解き放ち,「雨、雨,葉っぱの雨!」と声を上げました。経験の少ない彼らは目の前の出来事が怖いことなのか,叙情的なことなのかを決めかねる事もあるはずです。
ふと眼差しを上に向けると,木と木の間に大きな蜘蛛の巣。巣には枯れ葉がたくさんまつわって、だからこそ蜘蛛の巣の存在が知れたのですが、よく見れば巣の中央に女郎蜘蛛がじーっと陣取っていました。「蜘蛛のおうちはおおきいねー。蜘蛛がどこにいるか見つけられる?」 2歳児にとって、広い空間の中で指示されたものに目を向ける事はとても難しい事です。こうして機会あるごとに練習しておく必要があります。葉の下のドングリを見つけたり,梢の高い所にたわわにぶら下がっているカリンを、早く落ちてこいと見上げたり,自然の中にいると見つかるものはたくさんあります。
けれどこんな散歩をするためには,子どもの自由が保障されていなければなりません。「そっちへ行ってはいけません。」「走ると危ない!」「池の端から離れなさい」等々を云わず、なるべく子どもに束縛感を与えずに一緒に歩くのは、かなり神経を使いますが、こうした心得を持って子どもを見守る事が、外遊びでの仕事の半分以上を占める行為だと思います。他の団体もたくさん来ていて、大小様々な教育機関の集団とすれ違いますが、どの集団も監督者の規制の声が多すぎて、こちらまでシュンとしてしまいます。子どもの危険を回避しようとすると,大人はどうしても規制をしなければならないと感じるの
でしょうが、それが常となっていくと、子どもは元々大人の云う事を聞かない人種だという偏見を捨てられなくなってしまいます。実はそんな事をしなくても,時間を共有しようという親和的な気持ちで子どもに接すれば,彼らも大人との触れ合いを楽しんでくれるので,決して大人から逃げようとはしないものなのです。
普段教室で活動している時も、この観念は変わりません。分からない子どもに、聞く耳を持てない子どもに聞かせよう等と思えば,余計に空回りです。外遊びの時の気持ちそのままに子どもを尊重して付き合えば、あっという間に子どもも、そして大人すらも活動に夢中になれるのです。
このリトルクラスとの秋の散歩は,春と合わせて年間2回のカリキュラムです。春はお母さんも一緒で同じように植物園を一周しますが、秋はお母さんと園の正門でお別れ。春はお母さんにだっこをせがむ子もいたのに、半年の間の子どもの成長にはめを見張るものがあります。脚力も言語力もですが、親以外の大人を信頼し,自らを解放して活動を楽しむ事が出来るようになった事に一番大きな成果を感じます。こうした土台を作る事が,この先の彼らとの年少・中・長と続く活動を支えていきます。
来年はどんな子ども達に会えるのでしょう。又,今回の散歩の幸せを再び
子ども達と味わえるでしょうか。楽しみです。
●2010.7.2. Vol.85 子どもの気持ちを知っていますか?
解せないことがあります。それまで楽しんで授業に参加していたのに、突然様子が変わる子どもがいます。異様にベタベタしてきたり、わざと「ちょい悪」をしてみたり、活動に参加しないとごねたり。本来安定した子どもは、今から目の前で繰り広げられる未知の体験に目をキラキラさせながら寄ってくるものです。現にクラスのほとんどの子がおもしろそうに加わっているのに、一人だけ態度が違うのは、明らかに授業以外に問題があると思われます。
それまでごく普通に成長してきた子どもが、突然ストレスの強い受験教室等に通い始めると、こうした反応が出てきます。大人を試しているのでしょう。
この教室の先生はどっち派なの? べたべたしても受け入れてくれる? 悪いことしたら気にして心配してくれる? そんな声が聞こえてきそうです。他教室ではどんな反応を示しているのでしょう。厳しい教室では、ベタベタやちょい悪は許されないでしょう。きっと緊張しておとなしくしていることでしょう。だからストレスがかかってこうした反応が出るのです。
厳しく指導してくれるのは歓迎です、とお母さん方はそう思っていらっしゃるかも知れません。厳しい指導って何でしょう。間違えると否定されることでしょうか。罰を加えられることでしょうか。そして厳しく接する塾にあたかも賛同を示しているように見える自分の親を感じたとき、子どもは逃げ場を失います。だから少しでも友和的な環境の中で、だだを捏ねたくなるのでしょう。
私たちは、決して子ども達に迎合しはしません。子どものわがままに屈することもありませんし、乱暴や暴言には完全と立ち向かいます。けれど子ども本人の有りようを否定したりすることはしません。それだけのことです。
幼児に向かって、お母さんと離れて寂しいという感情はさっさと克服しなさい、
と云ったって、無理でしょう。特にお母さんからおこられた後等にお母さんと離れる時等、子どもは不安を感じるものです。そうした状況も何も無視して子どもに様々なことを強制すれば、子どもは確実に壊れていきます。見えない心の内が壊れていくので、子どもの現状に気付かない大人もいます。そうした大人は、受験を目指すのにそんな甘いことを言っていても埒が開かない等と考えます。いえいえ、絶対にそんなことはないはずです。子どもを尊重しながら、子どもが積極的に学び取ってくれる方法で指導することは可能なのです。
一番心配になるのは、こうした症状を示している子どもの実態を、お母さんは少なくとも知っているのだろうか、ということです。
●2010.5.6. Vol.84 長らく書かないうちに・・・
この前はいつひとり言をつぶやいただろうと、自分のホームページを開けてみたら、なんと去年の9月が最後だということが判明しました。どんな言い訳をしようと思っても、たとえ宇宙にいても連絡の出来る時代に居て、言い訳なんて無駄だということに気づきました。少し休んでいると、トピックスが溜まりに溜まって、どこから話を始めたらいいのか分からなくなり、頭の中を整理してからにしようと思いつつ、ついに半年以上が経ちました。さて、どこから始めるべきでしょう。きっと過去のことは振り返らずに、1から始めるつもりになればいいのですね。
さて、パルでは4月からまた新たなクラスが始まりました。そして今年はパルの創立25周年に当たります。25年の間に私自身はどう変わったかを考えてみました。確かに歳を取りました。でもお陰さまで以前と変わらず元気です。子どもに対するものの考え方は? 全く変わらない部分と、変わった部分があります。子どもはどうあるべきか。どのように発達していくのか。この辺りに関する認識は変わりようがありません。変わった部分は、子どもに投げかけていく私の言葉やキャラクターがより自然に、より相手を尊重する方向に進んでいる、というところでしょう。子どもと付き合っている時に、こちらが発した言葉なりに相手がどう感じ、考えてリアクションを起こそうとしているかを観察していると、とても十把一絡げに対応できないことを実感します。幼ければ幼い程、ていねいに相手の人格を大人の側が認識して対応しなければならないと感じます。人は誰しもが人格を持ちます。そしてそれは尊重されなければならないものです。人は成長するにつれ、自分に人格があると同様他人にも人格があることを認識し始めます。しかし一方的に守られてしかるべき幼児の場合、自と他は分ちがたく存在しています。だからこそ大人がその分を引き受けて幼児の人格を侵害しないように配慮しなければいけないのでしょう。
こうした関わりの中で、幼児は少しずつ「他」を意識し、人からの働きかけに気持ちを閉ざすことなく自らも外に向かって働きかけようとしていきます。
これがまさしく、幼児に取って学ばなければならない大きな課題で、この部分を配慮せずに何かを教え込もうとすると、彼らの興味は突然失せて、心は固くなってしまいます。昨年度から私たちは、より一層強制的に偏らない授業を、子ども達がアグレッシブに関わりたくなる授業を心掛けるようにしてきました。
4月から新しく始まったクラスで子ども達と接し、今又更に子ども達と過ごす時間が躍動していると感じることが出来、まだまだ知ること、考えうることは沢山ある、と思い知らされます。そして、元気が出てきます。自分が自然になればなる程、子ども達はリラックスし、楽しんで学んでくれるようになります。
具体的な授業の内容も、人と人とのコミュニケーションも何もかも。
さてと、次はもう少し間を置かず、もっと平らな文章をお届けすることが出来るでしょうか。
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